top画像 文字サイズ 大 中 小
サイト内検索
指定文化財
国指定文化財
名称 解説 問い合わせ先
木造不動明王坐像 鎌倉末期。桧造り、体奥が深く安定に富む造型。1961年補修の際に、不動明王の種子(密教で仏・菩薩など各尊を梵字で表したもの)「カーン」を30747字筆写した15mの巻子が胎内から発見された。 長生郡長柄町山根821

飯尾寺
0475−35−3634
史跡長柄横穴群羨道と玄室の間に段差を持つ「高壇式」横穴墓。段差は1.5mから2mであるが、最大のものは2.9mに達するものがあり、日本で最も高さのある横穴墓である。町では現在、保存整備事業を実施しており、ガイダンス施設として「史跡長柄横穴群資料館」が平成22年4月から一部オープンしている。見学を希望する方は長柄町教育委員会 生涯学習課まで。史跡長柄横穴群パンフレット
長生郡長柄町桜谷690

長柄町教育委員会
生涯学習課
0475−35−3242
眼蔵寺 梵鐘 1264年の古鐘で千葉県最古。鋳工は広階重永。高さ91cm、径62.1cm、池の間(30.6cmX37.5cm)の無乳の梵鐘。なお無乳の鐘は向岳寺(山梨県塩山市)在銘のものと、この眼蔵寺境内より大正6年発見された明徳3年(1392年)銘のものと併せて全国で3つだけである。
ミヤコタナゴ 1974年に国の天然記念物に指定。

県指定文化財
名称 解説 問い合わせ先
木造伝牛頭天王立像 文献「本殿造立徴序」によれば、この神像の由来は天武天皇の和銅2年(707)の建立、寛仁2年(1087)の刑部三郎成常の社殿修理、万寿元年(1024)の祭礼開始を記載されている。造りは榧の一木造りで背面を深く内ぼりしてある古い手法。衣冠をつけた堂々たる立像で、眉太く、鼻引きしまり端厳なる相好である。この神像は木像としては日本最大で、牛頭天皇はスサノオノ命のことともいわれているが、日本の信仰史上、謎につつまれた神である。 長生郡長柄町桜谷690

長柄町教育委員会
生涯学習課
0475−35−3242
眼蔵寺 木造釈迦如来・ 迦葉・阿難像 鎌倉中期の製作。鼻梁が太く意想的な強い表情を持つ相貌、量感豊かな体躯、写実的な衣文に運慶派の系統を引く作風である。脇侍の阿難・迦葉像は、玉眼を嵌入しない点から鎌倉後期の製作と見られる。阿難は十大弟子の一人で多聞第一と称せられ、迦葉は修行第一と称せられ、ともに釈迦滅後の経典編纂の中心であった。平成16年度に保存修理を実施している。
日輪寺 絹本箸色真言八祖像 室町初期の製作とされる。筆者は不明。真言宗の伝持の八祖といわれる竜猛菩薩、竜智菩薩、金剛智三蔵、善無畏三蔵、不空三蔵、一行禅師、慧果阿闇利、弘法大師の画像。着衣や肉親部分の彩色において白色に現された部分は、白色顔料を画絹の裏から塗る、裏彩色が施されている。また色紙形の下絵として、雲や草花が金泥を用いてゆったりと描かれるなど伝統的な手法が見られる。
日輪寺 金剛盤(付)五鈷鈴・五鈷杵 これら三点は一具のものではなく遺存したものを集めたものであるが特に五鈷鈴は行願上人所持との寺伝があり、製作年代が最も古く、作風から鎌倉中期の作と考えられる。
銅造准胝観音菩薩立像(七倶胝仏母准胝観音) 准胝は洗浄の意で、七百億の諸仏諸菩薩の意味。常に人間界に交わって衆生の惑いを開き、延命除災の諸願をかなえる現世利益の菩薩である。この像は青銅、十八臂(臂は腕の意)で鎌倉時代、13世紀後半に制作された鋳造の仏像である。

町指定文化財
名称 解説 問い合わせ先
飯尾寺 梵鐘 銘文に、梵鐘の鋳造の経緯が記されており、当時の飯尾の状況がうかがわれる。寛文4年(1664)に茂原市本納在住の鋳工鵜沢右近信重が製作。 長生郡長柄町山根821

飯尾寺
0475−35−3634
飯尾寺 石灯籠 仏前に供える灯明台として造られたものだが、平安時代から神社にも置かれるようになった。社寺の堂前に2基を配するようになったのは室町時代以後といわれる。この石灯籠は、銘により明暦2年(1656)の作品である。
飯尾寺 狛犬一対 狛犬は高麗犬の意で、その原型はインドの仏教遺跡に見る獅子形から出たといわる。中国漢の時代から守護神の意味で廟などの前に置かれた。飯尾寺の狛犬は在銘(寛文10)として千葉県下では最古のものに数えられ、両足を直立させ、胸を張った姿は素朴であるが力強さを感じさせる優作である。
飯尾寺 本堂欄間彫刻 竜は仏法守護の八部衆の一つで、特に不動明王を本尊とする寺院の境内などにはその造形が建てられている。作者は安房の名工、武志伊八郎伸由である。「波の伊八」と呼ばれ、「関東では波と竜を彫るな」と言われるほど、波涛の力強いうねりを現した傑作が多い。この飯尾寺の欄間は伊八の晩年の作で、円熟した技巧を十分に発揮している。

甲胄(附:鎖かたびら・鉄扇)
慶長年間(1596−1615)頃の作と考えられる。丸に揚羽蝶の紋があり備前(岡山県)池田家よりの伝来という。甲は蝶の前立三枚錏、冑は胴丸黒革八枚の草摺をたれている。なお、鎖かたびら一領、名工源吉道作銘の鉄扇が付属している。 長生郡長柄町桜谷690

長柄町教育委員会
生涯学習課
0475−35−3242
多賀氏系図 多賀氏は池和田城(市原市)にあり、里見の武将として重きをなしていた。この系図では文明元年(1469)に池和田城に據るとしている。永禄7年(1564)北条氏の攻撃を受けて敗れ、この遺児がのがれかくれ住んだのが多賀家の祖先という。
天満宮 鰐口 この鰐口は、普段は井戸の中に掘られた横穴に入れ保管される。それを毎年1月21日になると取り出し、25日祭礼の神前に供え、翌26日再び井戸に納めるという奇習がある。
日蓮筆跡 多賀氏は代々熱心な日蓮宗の信者であり、高額の寄付を日蓮宗寺院におくったというが、その返礼として贈られたものであろう。
大躬の槍 多賀蔵人正高明、多賀兵衛佐高方の兄弟は北条勢の来攻に際して攻防百余日、遂に力尽き落城したが、高明の遺児隼人がこの地に逃れ来ったという。これが多賀の祖である。これは多賀氏蔵人奮戦の槍と伝えられるが、保存もよく中世末期の武器を知る遺品である。
長柄小学校 武蔵板碑 校舎造成中に出土した。康永4年(1345)の紀年銘がある。
安楽寺 武蔵板碑 板碑は現在行われている木製の板塔婆と同じ性質のもので、死者を弔うもの、生前予め死後の菩提を祈念して営む逆修など、目的は供養にある。この武蔵板碑は、安楽寺山門より出土したもので、元享4年(1324)の年号の紀年銘がある。
白幡神社 白幡神社向拝竜図彫刻 天正元年(1573)創立。社殿正面の向拝に竜の彫刻があり、銘文に「彫工房州長峡郡下打墨住 嶋村久八郎由勝作」とあり、名工武志伊八郎の一門と推測される。
白幡神社 白幡神社内殿 嶋村久八郎由勝の作で、文化年間(1804−1818)に製作。内殿の宮殿両側に天の岩戸前の神楽の図及び阿弥陀如来(八幡の本地)影向の図の彩色画が描かれている。
黒須家系図 武峰神社の神官を継承し今日に至っている黒須家の系図である。この系図は近世の写しであるが、物部氏の系譜を最初に掲げヤマトタケルノミコトの伝承がこの地に成長して行った経移を辿ることのできる点、他に全く文献がないこの地方の古代の姿を辿る貴重な資料である。
三島神社 鯉の滝上り図彫刻 武志伊八郎信由の作。神社社殿内部の内陣両側の厚い桧板に鯉と滝の図様一対が彫刻されている。滝の水流と鯉の力強い跳躍が見事に描かれている。
春日神社 絵馬(源三位頼政の鵺退治図) 文化12年(1815)の鳥居清忠作。鳥居派は、浮世絵師のうち特に役者絵に得意で、歌舞伎芝居が盛んになるにつれて、劇場前に掲げられる看板絵は鳥居派の画家に限られるようになった。奉納者の久兵衛は徳増の出身で、新和泉町に酒・味噌で商人として成功し、故郷の神社に掲げる絵馬を献納したものと推定される。
長栄寺 阿弥陀如来坐像 平安末期の製作。長栄寺の本尊として安置されているが、本来は長栄寺の裏の丘陵にあった真福寺旧蔵と伝えられている。またこの真福寺は、榎本城主の菩提寺であったとも伝えられている。
庚申塔 60日に一度めぐってくる庚申の日は、夜は人間の身体に巣くって害する尸虫が昇天して天帝に人間の罪過を告げて人の命を縮めようとする。それを防ぐために一晩中眠ってはならないとされ、庚申塔はその時守護するものとして種々の仏像が祭られた。その中でも青面金剛像がもっとも多い。
円覚寺 三山供養塚・供用碑 出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)の信仰は日本古来の山岳信仰にもとづき、房総半島に広く信仰されている。三山参拝を記念し参拝者の持ち帰った梵天(オフダ)を納め上に塚を築いたのが供養塚でその上に供養塔を建てた。中央に智拳印を結ぶ金剛界の大日如来を陽刻し、中央に湯殿山、右に月山、左に羽黒山を陰刻してある。
日輪寺 涅槃図 縦1,431cm、横190cmを測る、釈迦の入滅を描いた図。鎌倉末期までさかのぼると見られていて、房総における最古のものと考えられる。
福寿寺 梵天・帝釈天立像 これは修験寺であった梵天山喜晃院帝釈寺旧蔵で、鎌倉末期の作。帝釈寺の歴史は不明だが、明治初年の「神仏判然令」により廃寺となり、幸にこの二体は廃棄されず天台宗福寿寺に移された。「平賀家文書」によると、平賀氏がこの地域の地頭として任命されており、この平賀家の祖先が出羽国であることから、その信仰により寺院を建てたと考えられる。
日輪寺 如意輪観音坐像 右足を立て膝した六臂の如意輪観音坐像で木造。本来は茂原市の如意輪寺の本尊であったが、室町時代末期の酒井氏の改宗強制に際して、同寺の僧が背負いこの地に逃れてきたと伝えられている。
日輪寺 鰐口 寛永14年(1637)の銘があるがこれは追刻で、作風、形態から鎌倉末期までさかのぼらせてよいといわれる。中央の種字(梵字)はバイであるから、もとは薬師堂(近世中期に廃)にあったものであろう。
針谷寺 椎の古木 「過去帳」によると、針谷寺は岬状につき出た丘陵の突端にあるため、慶安元年(1647)に防風ならびに防火のため周辺に植樹したことが記載されている。ただし寺背のなかばくずれた塚状の上の老木1本はさらに古く推定樹齢約500年とみられる。
針谷寺 日蓮上人真筆 日蓮上人筆の冊子の一行を切り取って表装したもの。「仏とき給事なし仏の教成道の時」とあるが、詳細な書名出典は不明。もと、大庭の伊東家にあったもので、明治年間に奉納したものと伝えられている。
高札 法度・掟等を記して立て札を掲げたものを高札という。指定された高札は、正徳2年(1712)の火事取締り、天明8年(1788)の博打の取締り等を掲示したものである。
絹本箸色阿弥陀如来画像 伝えられる縁起によると、親鸞上人が来りて御一泊せられその時の御形見として残したものとある。しかし、現存の文献からは上総来訪の記事はなく、かつ現在は長柄町及びその周辺には真宗寺院がない。ただし、もっとも有力な弟子で、親鸞帰京後の関東における中心となって活躍した性信は上総藻原(現茂原市)に得法寺を建てたという記載があり、関連がうかがわれる。
阿弥陀如来立像 室町末期、あるいは近世初期の製作。西方極楽世界に住する阿弥陀如来は、この仏を信じ、その名号を唱えるものはその功徳により必ず極楽浄土に往生することができるとして広く信仰されてきた。この阿弥陀如来は来迎印を手に示した立像で後背に円光があり、それより光明を四方に輝かすことを表している。両肩より翼の如く左右に雲文がでているのは珍しい像容である。
懸仏 鏡の面に仏・明王・神像などの像を現したもので、古くは御正体とよんだ。神仏習合の思想の流布と共に平安末期から近世に及ぶまで盛んに製作されて神社に奉納されたが、「神仏判然令」の発布により禁止され廃棄されたものが多い。この懸仏も上部に二個の穴がうがかれていて懸けられていたことを示している。手に薬壺を持ち薬師如来を現している。製作は鎌倉末期又は室町初期ごろと推測される。
絹本著色光明本二十対御影 縁起には「光明本二十体御影」と称し、中央に金色に輝く阿弥陀如来の坐像を描き、上部に真宗の八祖、下部に十二名の像形の坐像を描いている。残念なことにその名称を記した部分の呉粉がはがれておりその名を明らかにしがたい。通常、光明本尊とよばれるものは、中央に「南無不可思議光如来」などと書き、その文字より光明が放射し、その中に高僧の姿を描かれているが、これは阿弥陀如来である点に差異がある。
十王図 死者が冥途に赴く時、七日目ごとの四十九日までと、百日・一周忌・三回忌とそれぞれ地獄の王の裁判を受ける。その時の様子を描いたのが十王図で、地獄におちた人たちの姿や、それを裁く王たちのいかめしい態度などが稚拙な筆で描かれている。職業画家ではないが、それだけに素朴な庶民の信仰の表現とみることが出来る。製作は慶長・元和ごろ(1596〜1624)の作品と推測される。
地蔵菩薩立像 慈覚大師(円仁)東国巡教の時、自ら刻まれた尊像を安置したと伝えらる。地蔵菩薩は釈迦如来の入滅後、弥勤仏の出現するまでの間、比丘(僧)の姿で世間を往来し、一切の衆生を救うと信じられている。
古鏡 直角式厚縁の白銅製。鏡胎の厚く、文華は蓬莱文であるが堂々とした作風で、安土桃山風が見られる。
石憧 仏前を飾る布製の幢幡を六組又は八組を合わせた形のものを石造物としてあらわしたものが石幢である。龕部、笠の部分が残っている。六帳幢で六地蔵とおぼしい仏形が掘り出されている。
上総国長南領刑部郷御縄打之水帳 豊臣秀吉は小田原征伐の後、徳川家康に国替えを命じ家康は天正18年(1590)関東に移った。天正19年(1591)には上総の検地を始めたが、この長柄町現存最古の検地帳は文禄3年(1594)八月のものである。同年八月一日から二十七日にかけて行ったもので、案内者、筆記者、立会人の名はあるが検地役人の名が欠けており印がないことから、控えのためのものと推測される。
武峰神社 御輿 神霊が本社より他所に渡御されるのを神幸(ミユキ・オイデともいう)と称し、その時の神の乗りものが神輿である。元禄年間(1688〜1704)の製作と推測される。
妙泉寺 木造大日如来坐像 智拳印を結ぶ金剛界大日如来の坐像で、作風はおだやかであり、近世初期の作と推定される。厨子は地頭の榊原氏の寄贈である。
月輪寺 両界曼茶羅 金剛界・胎蔵界の二絵図であり、これらを両界曼荼羅という。金剛界曼荼羅は中央に智拳印を結んだ大日如来を描きそのほかに一千四百六十の仏像を描くがこれらはすべて大日如来の智徳が顕現した姿であり、胎蔵界曼荼羅は中央に法界定印を結んだ大日如来が安坐しており、それをめぐる四十四の仏像は大日如来の慈悲に顕現である。
木造阿弥陀如来立像 安養坊は笠森寺の住職の隠居寺であったといわれている。本堂・庫裡・薬師堂・四足門などがあったが、明治二十八年に崖くずれの為埋没し、僅かにこの本尊のみが今日まで残存した。この阿弥陀如来立像はその本尊であり、鎌倉時代末期の作と推定される。
道脇寺 木造薬寺如来立像 この尊像は、元応のころ(1319〜1321)金剛寺(市原市)の熊野神社から来たという伝承がある。この附近は道脇寺を中心とする薬師信仰の盛んなところだが、中世末期の酒井氏の改宗強制のため、日蓮宗(日秦上人門流)となり、従来の諸寺はすべて中世仏像はほとんど廃棄もしくは他に逃避して現地には遺存しない。その中にあって、この薬師如来像のみはかろうじて今日に伝来したものである。
安然塚 安然は天台密教(台教)の大成者で、日本における悉曇(梵語)学の礎をきずいた人。五大院大徳、阿覚大師とも尊称せられた仏教史上に逸することの出来ない巨匠であるが、その生年は承和八年(841)と推測せられているが、没年も入寂の地も定かでない。そのなかで仙順という僧の写本によると、道脇寺が安然の開基であるという記載は注目すべきであろう。この安然塚も仏教史上の安然の墓であるという確証はないが、現在の長柄小学校に存在した道脇寺の開基である、高僧の墓地であると推定される。
阿弥陀三尊画像 木阿弥陀如来立像とともに、依存している掛け軸である。作者は不明であるが、室町時代中期の作である。
光厳天王御宸筆和歌懐紙 光厳天皇は南北朝対立時代(1336〜1392)の北朝第一代の天皇で、在位の期間は元徳三年(1331)から三年間であるが、元弘三年(1332)以後は太上天皇を贈られ、延元々年(1336)以後正平七年(1352)まで上皇として院政を行った。指定の文化財は、日吉神社に天下太平を祈願して賜った和歌七首である。延元元年の五月頃の作と推定される。
畠山重忠画像 畠山重忠は源頼朝に仕え、豪勇と誠忠によって知られたが元久二年(1205)、北条氏の謀略によって殺されたが、その妻は岩松氏に再嫁した。その子泰国は畠山三郎と名乗り上総介となった。この画像は近年初期、重忠が歌舞伎・浄瑠璃などで、智勇兼備の武将として賞賛せられたころの製作と推察される。重忠の画像が、他に存在しないことを考慮して文化財として指定した。
経机 この経机の両側にある竜の彫刻は、武志伊八郎信由の作である。小品ではあるが力作で、製作年代は不明であるが、飯尾寺本堂の欄間作品と同時代と推定される。
▲ページトップへ
問い合わせ先は各表に掲載しています。